自分は何故生まれてきたのだろう、死んだらどうなるのだろう、自分の本質は何なのだろう、と探求した事実を述べます。

真の自己
坐禅等により真の自己を探究して45年になる。今思うと、そこで体験したことは、私の人生を豊かにしてくれた。そこで、私の大切な人たちにも共有し、幸せな人生を過ごして頂きたいと願い、ここにその体験を簡単に整理して残しておきたいと思う。
始めに:
自分は何者だ、なぜ生まれてきたのだろう。死んだらどうなるのだろうと考え始めたのは小学校6年の時であった。敗戦による逃避行、引き揚げ、その直後の妹の死、更に捕虜収容所における父の死、叔父の南方での玉砕など多くの死を身近に感じていたから当然の疑問であった。そして35歳の時に姉の死を経験した。その年に、日陰で細々と育てていたイチジクが一つの拳骨大の実を付けた。これは後にも先にもなかったことだった。それは人間の死後はどうなるか疑問に思っていた私に、姉が答えてくれたに違いないと確信した。母は、海軍病院で看護婦をしていた時に、患者が死んでも魂は残っている現象を幾度となく体験しているので、全く疑っていなかった。その後、二人で墓参の折に霊園で撮った写真を現像すると、背景にシャボン玉のような透明で丸い物体が多く映っていた。それは、ある時テレビで放映された心霊スポットで現れた不思議な現象と似ていた。母も私も、それは墓地にいる多くの魂が映し出されたものだと思い、気味が悪くなって慌てて焼却した。この様なことがあって、人間の肉体は死んでも、意識(魂)は残ると考えるようになった。それを機に坐禅を始めた。更に、日本で坐禅をする傍ら、インドに於けるサイババとの出会いを通して、人間として生まれてきた意味を深く参究することになった。母は、私が幼いころから坐禅をしていたので、私の道友でもあったが、その母が94歳で亡くなった。葬儀の後、母の家で寝ていると毎晩バタンと大きな音がした。それは、母が自分の姉が亡くなったときに経験した現象と同じであった。母の体験では、葬儀の何日か後に、母の姉が枕元に現れ、黙ってお辞儀をして消えた。それ以来、音はしなくなったと言っていた。私の場合、その様なことは無かったが、葬儀の後七日を境にして消えた。これは、母が生きていることを私に知らせてきたのだと確信する出来事であった。
こうした体験から、人間の身体は死んでもその意識は生きていると実感したが、疑問はさらに深まった。それは、自分はいったい何者なのか、何故、ここに生まれてきたのか、その自分は死後どのような過程を通って、次の人生に生まれ変わるのか、それは何によって決まるのか、と言ったことである。それ以来、日々の坐禅に加えて、アメリカでの拡張意識の合宿訓練に参加したり、著名な退行催眠の関係者たちと交流して経験を深めた。またサイババの講話録や、アメリカの大学における退行催眠や臨死体験の研究者の著書などを通して、広く調査した。その結果は驚くべきことであった。
結論からに言えば、肉体は死んでも、自分は死なない。この人生は、自分が自分の本質(純粋な愛)を実際に体験し、深く知る為に創造された世界である。輪廻する人生で経験する喜びも悲しみも、成功も失敗も、敵や味方の存在も、全てがこの目的に沿って現れる。この事実の一部でも体験するか、確信することが出来れば、人生に対する見方が大きく変わり、その結果、人生そのものが大きく好転すると確信する。
次に、このように結論付けるに至った私の体験と気づきについて簡単に説明する。
個人的な体験を通して自己の本質を知る:
1.禅体験
坐禅を始めて3年程経ったころ、福島の好国寺専門僧堂での5日間の接心会に参加し、禅堂で坐禅をしていた。そこで一心に無―と坐禅をしていると、(無に集中していると)突然、自分の姿を後ろから見ていることに気が付いた。無ーとやっているのは、自分のようだが、今意識している自分ではない。それが、ただ一生懸命に無ーと坐禅をしている。自分は今その姿を後ろから見ている。これは一体どうしたのだろうと考え始めたら、坐禅をしている自分に意識が戻った。
その後に続く坐禅で、はっきりと気が付いた。本当の自分は死なない。自分と思っているこの身体が生きたり死んだりしているのだ。ここで私は「やっぱりそうか」と言う想いと共に深い安ど感に満たされた。
通常は、身体を自分だと思っている。言い換えれば自分の意識( 心、 consciousness)が肉体に囚われている。しかし深く坐禅に集中した時、意識が身体を離れて広がった。この時、身体は障子や柱時計と同じく現象界の存在にすぎなかった。障子も柱時計も、老師も、仲間も肉体も、全ては自分だ。
老師と独参室で対すると、お互いに話さなくとも老師の想いが感じられ、また自分の心も伝わっているような気がした。この感じは、後述する拡大意識のトレーニングに参加して実際に確認した。また、人の喜怒哀楽が自分の事のように感じ、嬉しかったり悲しかったりする。それは自分と他人は一つだからだ。
一方、自我に執着していると、意識は肉体に囚われる。その結果、自分と他人が別の存在として感じられ、自分を中心にして行動するようになる。通常はこの世界を生きている。
2.ヒマラヤでの体験
サイババの道場で祝福を受け、坐禅をした帰途、ヒマラヤをトレッキングするためにポカラ近郊のアンナプルナ登山口のダンプスに滞在した。そこで激しい夕立の後、顔を上げると、眼前に夕日に染まるアンナプルナがそびえていた。赤い夕日に照らされ輝いている。眩しい。自分がいない。
インドで賛美歌を歌っている時も同じような体験をした。歌声と一つになって響き渡っていた。自分がいない。
我を忘れた時、有るのは眼前の現象だけだ。現象と一つになって見ている意識も無い。
3.退行催眠の体験
アメリカで退行催眠の研究者と共に、モンロー研究所による1週間の拡大意識のトレーニングに参加して、そこでヘミシンク(意識を集中させる外部環境)により過去世退行を経験したことがある。その人生は、昔、ヨーロッパのようなところで放牧により暮らす老人の人生であった。また別の人生では、やはりヨーロッパの大きな農園とシャトーでの暮らしを見た。モンロー研究所のベッドに横になっているのであるが、自分の過去世の人生を今の出来事として、観察者のように見ていた。また当事者になろうとすれば、その人生の当事者となった。それぞれの世界で生きている自分も、それを眺めている自分も、自分であった。過去、現在と言う時間感覚も無く、ここで今、全てを体験した。
この世界は単なる現象であって、実体は無く幻のような世界である。そこで暑い、寒い、嬉しい、悲しいと感じている意識だけが事実だ。
4.坐禅三昧での体験
坐禅が進むと頭に浮かぶ雑多な想いも消えて、静寂を感じる。坐禅開始の鐘を聞き、無に集中する。ある時、曹洞宗の禅堂で接心の折、集中して何もかも無くなった。時間も無い、空間も無い、感覚もない、完全な無に没入しているがそれも意識しない。しかし意識が無かったわけではない。なぜなら、突然、終了の鐘が聞こえた。ここで初めて長い時間を経過していたことを知った。
このような無の意識状態も自分である。
この坐禅の様に完全に集中した状態では、自分も他人も、現象界の何もかも、全て消えてしまう。自分を意識することもない。何も起きない。一方、ここで意識を働かせれば、現象界が現れる。そこでは、自他を意識して生きる。人に感謝したり、ご馳走を旨いと感じたり、腰が痛いと呻いたりして喜怒哀楽、愛憎、冷暖等2元対立の世界を体験して生きる。
5.サイババとの体験
サイババはインタビューで私に、「この世は、有るように見えるが実在しない」と直接話してくれた。彼は、「この世界は夢のような世界だ。あなたは私だ、私はあなただ。だから自我を放棄し、他人を自分と思って愛し、尽くしなさい。Love All, Serve All. Love Ever, Hurt Never.を心に刻んで生活しなさい」と説く。そして「神は愛だ、自分は愛の化身だ、皆も同じく愛の化身だ」と続ける。
またサイババは、自分の想いは直ぐに実現すると言う。「皆は奇跡と言うが、この能力は皆も等しく持っている、しかし自我に囚われているから、この能力を発揮できないのだ」とも語っている。要するに完全に自我が無くなれば、時間も場所も現象界も超越して無限の力を発揮することが出来るのだ。真の自己は本来このような無限の能力を秘めたものだ。サイババに接することにより、この事実を幾度となく目撃した。
多くの講話を拝聴するたびに、語られていることは、自分の体験や気づきと全く矛盾しないことが分かった。ある時、「あなたが見ているこの世界は、鏡に映ったあなた自身だ、あなたが聞いている音は、あなたのエコー(反響)だ」と話されたことがある。現象界は自分だ、と説かれているのだ。
ここでの体験は未経験の人には信じられないと思うが事実である。
6.このような体験から分かった事
これ等の体験を通して、自分と自分の周りの世界(以後現象界と呼ぶ)との関係を考えてみた。
*人間は死なない。現象界の肉体は死んでも本当の自分(意識)は死なない。
*この現象界は、意識が自己の本質を体験するために生まれた幻夢の世界である。意識は現象界を輪廻転生することにより成長する。
*その過程で、欲望も自我の執着も無くなり、現象界も消えて究極の無になる。そこでは現象界で語られるところの神も仏も無い。ただ純粋に意識だけになる。しかしその意識すらも意識しない。
*この無の状態から、意識を働かせることにより、現象界(幻夢の世界)が現れる。この現象界は自己の想い、言葉、行動で展開される。
*意識は現象界で肉体に囚われて自他を意識することにより、試練を含む数々の経験をして、自己の本質(純粋な愛、慈愛)を体験し成長する。
*現象界に囚われないで拡大された自由な意識状態こそ真の自己である。これを一般には、本来の自己、Essential Nature、神、愛の意識、宇宙意識等と呼ぶ。一方、自他を意識する状態は、魂と呼ばれる。
死について:
肉体は死んでも意識は死なずに、輪廻転生することは事実であると分かった。しかし、死から転生までの間、肉体意識の無い自分は一体何をするのか、禅では分からなかった。そこで色々調べてみると、現在このテーマについて米国の大学などで退行催眠や臨死体験の証言を基に広く研究されていることを知った。関係者に直接会う機会もあった。それぞれアプローチの違いは有るが判明する世界は全く同じであった。従ってこれらの研究結果は極めて信頼できるものと確信している。そこで、ここでは、Michael Newton博士が退行催眠を用いて被験者を死後の世界へ誘導して得た数々のケースをまとめた書(訳書:死後の世界を知ると人生が豊かになる)やNeal Walsh氏の死後の世界について神と対話した記録(訳書:神へ帰る)、Anita Moorjani女史が自己の臨死体験をまとめた書(訳書:喜びから人生を生きる)を参考にして、その概要を伝えたい。多くは訳書、”神へ帰る”から引用させて頂いた。
1.今生の目的の達成と死
人間は真の自己の本質(純粋な愛)を体験し、学んで向上する為に輪廻する。
例えば、貧しい家庭に生まれて人生を生き、周りの冷たさや温かさを体験し、長じて、貧しい人たちの援助に生きることを選び、体験し、その優しさや喜びの感情を生きることなどである。こうして、神性としての自分を単に知るだけでなく、体験し感情を味わうことが肉体をもって生まれた本当の目的である。この過程で、多くの人たちと出会い、思考、言葉、行動によって現象界(人生)が展開する。またその人たちの学びにも相互に関係する。
こうして人生を過ごしている時、病気、老衰、事故などの原因により肉体の死を体験する。今生での目的が達せられたから死ぬのであるが、肉体に囚われているので分からない。しかし、死は予想できないが必ず起きる。
2.肉体を離れる
死んだ途端に、自分は死んだが命は終わっていないと気づく。横たわる自分の体を上から見て、自分は身体でないと感じる。同時に周りの者全員の想いや言動が完全に理解できるようになる。暫くそこにいることもできる。
続いて、自分が死について信じていたことが起きる。
自分の親や兄弟が迎えてくれると思っていた人は、その人たちに迎えられる。
無条件に神に抱かれると信じている人はその体験をする。
地獄に落ちると信じていた人はその通りの体験をする。地獄に落ちて苦しむ自分を観察するが苦しみは無い。嫌だ、助けてと言えば、直ちに愛する人や天使やガイド役の魂に助けられてこの体験を終わらせることができる。(以後、肉体に囚われない自己の意識を魂と呼ぶ)
神と一つになると信じている人は、直ちに神と一つになる体験をする。
この段階では、気づきや混乱など、死後経験すると予想したことを予想したとおりに経験する。またこの世界(魂の世界、死後の世界)では、思ったことや願ったことが直ちに実現する。(時間と言う錯覚が無いからである)
周りには愛情あふれる友人や天使や進化した魂(ガイド役の魂)が待ち構えている。決して一人ではない。助けを呼べば直ちに助けられる。
3.光と合体する
こうした体験が終わると、次に光のエッセンスを浴びる。この瞬間に、これまで持っていた自分の善や悪がさらけ出され、光に吸収される。ありのままで受け入れられた感じがする。恐れも不安も恥もプライドもすべてが溶け出し、魂には何も残らず、無くなったと感じる。この光のエッセンスから純粋な愛が輝きだし、それに覆われる感覚に包まれる。この感覚を言葉にすれば、暖かく包まれ、深く慰められ、大切に慈しまれ、心底から評価され、真に尊ばれ、優しくはぐくまれ、底まで理解され、完全に赦され、丸ごと抱きとられ、明るく歓迎され、全面的に称えられ、喜びのうちに寿がれ、絶対的に守られ、瞬時に完成され、無条件に愛されている。これらが一つになったような感覚と言われる。そこで光の中に入って行き、至福感に浸り全ての欲求を失って、それ以外の何かを知りたいとすら思わなくなり、息をのむほどの栄光と終わりの無い荘厳さ、比類なく美しい感性の中に溶け込んでいく。そこで十分癒される。この純粋な愛である光との合体で、自らが完全に解体したと感じ、自分は身体でもない、精神でも魂でもなく、それらを超えた、はるかに大きい何かであることを体験する。自分が自我の無い、神性な存在、純粋な愛であることについて、完全に理解する。そこから再び自己を意識して前に進む。
4.生前の人生の全体像を見る
ここでは生前の人生の数々をパラパラ絵のようにイメージで見る。それを良く見つめているうちに、人生で起こった全てを経験する。自分に起こったことだけでなく、全員に起こったことが自分に起こったことのように感じられる。それぞれのイメージは自分の人生の各瞬間を表し、それを見つめる事によって、それぞれの瞬間に起こったことの「完全な全体像」を初めて知る。その個々の瞬間は、自分が「自己」という体験を創造するために使われたと気づく。ここで、この人生の目的を完了したと感じるならば、魂の領域に進む。もしまだ目的を達していないと感じれば、物理的な世界に戻り「死ぬ」寸前の瞬間に到着する。ここまでは臨死体験者も証言している。(これが、死は自分の意志による選択で起きることを意味する。)
5.新たな人生を計画する:
人生の目的は真の自己を知って選び、表現し、経験し、そして余すところの無い存在になることである。魂の領域では、自分が神性な存在であることについて学び、完璧に理解した。しかし、その経験は物理的な世界でしかできないと分かる。そこで魂は誕生を経て物理的な存在に戻ってくることになる。こうして自分自身を再創造し、成長する。
具体的には、生前の人生を省みて、次の人生の課題(目的)を選ぶことになる。例えば、前の人生で人を激しく傷つけてしまった場合、人生を振り返って、相手がいかに傷ついて苦しんだかを知る。そこで、つぎの人生では、自分が人に傷つけられ苦しむ状況を計画して、それを自ら体験する。その体験を通して、人に優しくすることや思いやりを学び、純粋な愛の感情に浸る。こうして自分(自己の意識、魂)が進化する。これを因果と言う人もいるが、次の人生は因縁に応じて強制的に学ばせられるものではなく、自分の学びを進めるために、自分で決めているのである。
こうして新たな人生の目的(課題)が決まると、それに応じた人生のイメージを見る機会が訪れる。そこで、多くの選択肢の中から、目的に合った人生を計画する。そして、これまで出会った多くの魂と、その人生での役割を決める。
(このことから、過去世でも今生でも、自分を取り巻く人たちはお互いに課題達成のための大切なパートナーであると言える。自分を攻撃する人も、協力してくれる人も、皆自分の大きな課題達成のために選ばれた大切なパートナーである。その意味で、この世は善も悪もない世界である。しかし自我にとらわれた小さな世界から見ているから分からない。)
次の人生で経験する準備を終えると、高度に進化した意識達(ガイド役の魂、マスター、菩薩)が質問する。「あなたは自分が何を欲しているか知っているか? あなたは物理的な存在として戻るか?」その答えがイエスなら、再び光と合体し、全面的な溶け合いに入る。そして「誕生」と呼ぶ経験の中に入る。
6.誕生:
魂は、魂の世界での記憶を消して、物理的な世界(現象界)に生まれてくる。その理由は、計画した人生を事前に知ってしまうと、自分の本質(真の自己)を真に体験することができなくなるからである。全ての出会いや出来事は偶然ではなく、起こるべくして起きている。だから、現象界の出来事は、それ自体完全だ。
新しい人生では、生起した出来事に対して、ある時は自利に執着し、ある時は人の為に、考え、行動して、感情を表現し、経験する。それにより因縁が生じ、結果が現れる。こうして人生が展開する。その真の目的は、真の自己がその神性(純粋な愛)を体験し、感情を味わうためである。それは物理的な世界に生まれることでのみ可能になる。こうして魂の成長は続く。
7.今生の人間関係
この人生における誕生とは、自己の意識が死後の世界で前世を見直した結果、次の人生で体験することを具体的に計画し、そこで関わる人たちの魂と打ち合わせたうえで生まれてくることである。従って人生で起きる全ての瞬間は自分のために起きている最善で完璧なことである。しかし自我を意識している限り、気が付かない。
これまでに出会った人達、これから出会う人達は、こうして自分の人生に現れて、自己(魂)の意識の向上に手助けしてくれる人たちである。とりわけ自分の親や配偶者は自分と深い縁があって、この世を生きているに違いない。だから限りない慈しみをもって接するべきである。また、ふと目にした貧しい子供たち、彼らは自分が慈愛を表現するために自分の前に現れている。だから見て見ぬふりをしたりしてはいけない。それは、自己を体験する貴重な機会である。
まとめ:
真の自己は肉体(身体)ではない。肉体は、自己の特性である愛を体験する為に現象界に生まれた入れ物に過ぎない。真の自己は無限に広がった無限の能力を持った自由で純粋な愛の意識である。その意識は、純粋な愛の存在でいることも、肉体を持って人間界(現象界)を輪廻することも、死後の世界で指導役の魂(マスター)として奉仕することも、衆生の救済の為に人間界に転生することも、すべて自己の意思によってなされる。
現象界に関して言えば、すべての存在は、自己の意識から生まれた幻のような現象である。この宇宙の最果ての銀河も山も川も、私もあなたも何もかも、自分が時々刻々変化する世界を生み出している。その自分は純粋な愛だ、それを体験することが出来る唯一の場が人間界と言う現象界なのだ。だから人生は、自己を表現する貴重な機会である。全てが繋がって成るべくしてなっている。だから恐れることなく、自己を忘じて、慈愛をもって生きれば良いのだ。
おわりに:
知ったこと、感じたことを伝えようと欲張った結果、分かりにくい話になってしまった。縁が熟したら読み返して頂ければ幸いである。
結論から導かれる、人生に必要なことだけでも知って欲しい。
それは、自我を忘じることはできなくても、出来るだけ我欲を抑えて、状況に応じて振舞う事に尽きる。そうすればその場が最適に収まり、全てが成る様になり、人生を楽しく過ごすことが出来る。
また、死は次の人生を新しく創造するための通過点である。それは悲しむべきことではなく、むしろ祝福すべきことなのだ。
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