質疑応答集

これまで頂いた質問に対する答えをまとめました。今後の質問については、ブログで纏めてお答えします。

質問;真の自己に関する気づきはどのようにして訪れるのか?
答:自分は何かと言う疑団をもって、自己を忘じて無心でいる時、突然気づくことがあります。次に実例を幾つか挙げます。
*接心(5-7日間の合宿による集中した坐禅会)を終えて帰宅した女性が、家の仏壇に手を合わせた瞬間に仏壇と一つになった。
*修行僧が庭を掃いているとき、石が飛んでそばの竹にカーンと当たった。その途端、僧は自分が無くなった。カーンと一つになった。
*私の師である窪田慈雲老師は、ロンドンで地下鉄がゴーとやって来るのを聞いた時、突然自分が無くなって、ゴーだけになった。
*長沢祖禪老尼の接心に参加していた女性は、坐禅中に突然、至福感に包まれて自分が無くなり、気が付くと師匠の老尼の膝に伏して歓喜に泣いていた。
*私は接心中に突然自分が肉体の束縛から離れ、自分は肉体ではなく、大きな存在であると感じた。
*西欧の脳科学者Jill Bolte Taylorは脳内出血で自我をつかさどる左脳が機能しなくなった時、右脳が働いて、自分が無くなり、全てとの一体感を経験した。(著書My Stroke of Insight 参照)

質問:この世は夢のような幻の世界と言われる理由は何か?
答:実際に夢を見ている時には、全てが現実として感じられ、実感があります。そのため、夢だと感じることはできません。夢から覚めて初めて実体のない夢であったと分かります。同じように、今いるこの世界は、現実であり実体があると感じられますが、真実は夢のように実態の無い世界です。誰も、この世界は夢ではないと証明することもできません。死後の魂の世界も、輪廻する世界も同じように実体のない幻の世界です。
退行催眠中は、ソファーに横になりながら、過去世を現実の如く生き生きと体験することが出来ます。そこで感じる喜びも悲しみも、牧場も羊も、痛いも寒いも、みな現実の体験です。しかし、退行催眠が終わると何も無い幻の世界だったと気が付きます。
これらが、この世が幻であることを感じさせてくれます。

質問:この世は夢幻のような実体のない世界ならば、人の苦しみを無視しても構わないのではないか。
答:この夢幻の世界では、行為の結果は正しく現れます。人に優しくすれば、優しくされます。人を苦しめれば、自分も苦しめられます。そこに、例外などありません。その行為に応じた結果が正しく現れるだけです。何故ならば、この世界は元々無であり、偏り(バイアス)など存在しないからです。純粋な因縁果報の世界です。縁があれば、それに応じた結果が生まれるだけです。
夢幻の世界とはいえ、肉体を持った意識には現実として感じられますから、いい加減に生きてはなりません。
これらの過程で、喜びや悲しみなど即今即今の感情を体験して、自分は(自分の意識は、魂は)成長します。
人を苦しめれば、自分も苦しみを体験します。その試練を通して、愛を体験的に学びます。

質問:私はあなただ、あなたは私だ、と言われる。その理由は何か?
答:私たちは自己の本質を体験するために、自他を意識した存在としてこの世に生きています。その為に、私とあなたは別個の存在として認識します。私は私、あなたはあなたであり私ではありません。それは自己を体験するためには、この2元対立の世界が必要だからです。
しかし、自我に固執するあまり、自己の本質を忘れて、利己的に行動すると、因果により試練の多い人生を招来します。自我を意識しても、感謝と他利に生きることが望ましいのです。
坐禅や瞑想により気づき(見性、悟り)を体験すると、自我意識が消え、自他の区別もなくなることを経験します。その時、私はあなたであり、あなたは私です。全ては私です。これが真実の自己です。

質問;現象界は全てが完璧だと言われるが、戦争や災害を経験することも完璧と言えるか?
答:現象界と言われるこの世は、魂が自己の本質である愛を体験する為に創造された世界と言えます。この世界で愛を深く体験するには愛の対極にある全ての感情も体験して初めて愛を深く体験することが出来ます。愛が愛に囲まれているだけでは愛を体験することが出来ないのです。不安、冷酷、憎しみ、恐怖、飢え等を体験することにより、愛をより深く体験的に知ることが出来ます。
貧困、災害、戦争はこの目的に沿って創造された環境です。この試練を通して自己の本質を体験的に知ることになります。その様な意味で、全ては成るようになっている、全ては完璧であると言えます。

質問:人生で遭遇する試練にはどのように対応すべきか。
答:人生(現象界)での出来事は、死後の世界での計画と今生での想い、行動、言葉の結果(因果)として起こります。それは、自分(自己の意識)が自分の本質を体験的に学び成長する過程です。
この瞬間に自分が体験している試練は、例え厳しく苦しくても変えることが出来ません。縁により起こるべくして起きているからです。泣こうが、叫ぼうが、笑おうが、変わることは有りません。しかし、この試練に対して、見方、感じ方は私たちが自由に選べます。試練を学びの機会とらえ感謝の気持ちで他利の為に行動すれば、幸せを招来します。反対に、否定的にとらえると、他人に対して怒りが湧き、その結果、更なる試練を招来します。
従って試練に遭遇した時には、正面から受けて立ち、自我を抑えて周りの状況に最適な対応をとることが望ましいと言えます。試練は自己の問題に気付き、愛を体験的に学ぶまで続きます。
試練を含め、何事も自分の成長の為に起きています。周りの人たちに対しては、自分の成長のための協力者と考えて感謝して生きることが、良い人間関係に恵まれて幸せな人生を送るために大切なことです。

質問:人間の本質は愛ならば、何故利己的に他人を攻撃する人たちがいるのか?
答:この世界(現象界)では、試練を含め全てが、魂の成長の為に起きます。すなわち戦争と平和、愛と憎しみ、幸せと不幸、裕福と貧乏、全てがこの目的に沿って現れます。
この世で現在起きている出来事は、 死後の世界(魂の世界)での計画や今生での因果によって起きるべくして起きています。それに対して自由に対応することにより、この世を生きることになります。その結果、さらに因果が生まれます。
そこで自我を抑えて対応すれば、計画に応じた体験と学びの旅を進むことが出来ます。しかし、中には自分の本質を忘れて、自我に振り回されて利己的に行動し他人を攻撃することがあります。
攻撃された人は、その試練を通して真の愛を学び成長する機会を得ます。一方、攻撃した人は、死後の世界に戻り人生を振り返った時、相手の受けた苦しみを知り、それを追体験する為に転生することを選びます。人に与えた苦しみが大きいほど、輪廻による試練を繰り返します。攻撃した人は、こうして双方の感情を十分体験し、自己の本質である愛を学ぶことになります。

質問:自我を抑えて生きるとは、どのような生き方なのか?
答:利己的にならず、自分に厳しく、他人に寛容で、感謝の気持ちで人に尽くすことです。簡単なスローガン:“Love All, Serve All”に尽きます。
例え不幸に遭遇しても、その原因を考えて反省し、成長の機会と考え、前向きに受け止めれば幸せになります。
この世は曇りの無い鏡のようなものです。現象界での幸不幸は、全てが自分の想いと行動と言葉が引き起こしたもので、良くも悪くも自業自得なのです。あなたのこれからの幸不幸もあなた次第なのです。試練に遭遇した時、自我を抑えて他利の為に行動するのも、利己的になって、他を批判し攻撃するのもあなた次第です。何れにしても、因果は差別なく現れます。人に優しくすれば、優しくされます。反対に人に厳しくすれば厳しくされます。

質問:死は自分の意思によると言われるが、妻子を残して配偶者が自分の意思で死んだのならば、彼は全く無責任だと思う。
答:臨死体験や退行催眠を研究した人たちの著書を読む限り、次の事が言えます。
人生では一度ならず何度か死に直面することがあります。それは短い時間に起きるので、自分では気が付かないこともあります。何れにしても、死後の世界で人生を振り返り、このまま死ぬべきか、戻るべきかを判断することになります。
まだやり残したことがあると感じれば、そこで死に直面した肉体に戻ります。全てを完了したと感じれば、意識は肉体に戻らずに死後の世界(肉体意識を持たない世界、魂の世界)に進みます。この判断は、肉体意識に囚われた心の状態ではなく、肉体意識を離れた自由で大きな立場から為されます。
妻子を残して逝った魂は、自我に囚われない大きな立場、すなわち真の自己、宇宙意識、神とも言える立場から判断していることになります。
自分(魂)が今生での計画が完了したと判断したから死を選んだのです。同時に残された人にとっては、この死が、自分で計画した今生で必要な経験となります。死者も残された者も、全てが繋がっており、お互いがお互いに影響し合って成長しているのです。
この様な状況は、意識が肉体に囚われている限り全く想像することが出来ませんが事実であると感じます。
私の父は戦争で応召されて、満州で亡くなりました。母と3人の幼子たちを混乱の満州に残して逝くことが、父の意思だったのかと幾度となく自問しました。今になって考えると、それも父の魂の計画であると同時に私の魂の計画でもあったと思うようになりました。私にとっては、父の居ないことによる試練を越えることにより、今の恵まれた生活を享受し、本当の自己を知ることが出来たのだと確信しています。

質問:私の見ている世界は実体のない幻のような世界だと言われる。それならば、私の前にいるあなたも実体が無い幻なのか?
答:その通りです。私はあなたの生前での計画により現れた現象であって、実際には存在しません。あなたの意識だけがあなたの世界を作っているのです。お釈迦様が宣言された「天上天下唯我独尊」とは、これを意味していると思います。
同様に、私の世界では、あなたも実在しません。私にとって、あなたは私の成長の為に現れた幻です。

質問:自己の意識の状態を説明せよ。
答:意識は無限の可能性を秘めているので、言葉で表現すると観念化されてしまい、正しく説明することが出来ません。
私は、それを承知の上で、便宜上、意識を以下の通り幾つかの状態に分けて説明しています。
1)自他の区別無く、他は勿論、自己さえも意識しない状態。 (無の世界)
2)自他を意識するが肉体意識が無い、従って意識が肉体に囚われない状態。 (死後の世界、魂の世界)
3)自他を意識し、かつ肉体に囚われた状態。(今生の世界、現象界)

質問:この現象界の事実について、物理学者も同じような見解を発表していると聞いている。その概要を知りたい。
答:私たちの世界は、夢のような幻の世界です。そこでは、自分の意識だけが実在し、それ以外は幻のようなもので実在しません。物理学者は量子論を研究する過程で、似たような事実を発見しました。
物質は原子からなっており、その原子は素粒子からなっています。素粒子は粒子の性質と波動の性質を持っています。通常は波動性を示しており、見ることが出来ません。ところが観察しようとすると粒子の性質を表し、観察することが出来ます。
要するに物質は観察するから現れていると理解できます。この見解を物理学者は、コペンハーゲン解釈と呼んでいます。この観測問題から、更に多世界解釈が生まれました。これによれば、全ての可能性は、今、この瞬間に存在していると言われています。
物質を構成している原子は原子核とその周りに存在する電子からなっています。原子核とそれを取り囲む電子(確率的電子の位置)の間は、原子核の直径の10万倍ほど離れています。その間は空っぽの空間です。要するに現象界の物質は物理的に殆ど空であることが分かっています。
また量子力学では連続的な時間や空間は存在せず、これ等は瞬間、瞬間、離散的にしか存在しないことが分かっています。
要するに、この瞬間と此処しか存在しないと理解できます。

質問:日々の生活をしている自分と真の自己との関係を知りたい
答;私たちは、この自他の対立する世界で自己の本質を学ぶために生きています。そこでは、一人の人間として、想い、行動、言葉を通して、喜び、悲しみ、不安、安心、苦痛、快楽、愛、憎しみを感じ、併せて肉体の好不調も体験しながら、魂の学びを深めます。この自他を区別する意識は肉体に囚われた意識状態です。この意識は自我意識とも呼ばれます。これに対して、自己を意識しないときに感じる観察者の意識状態は自由で無限な意識です。これを真の自己と呼んでいます。しかし、肉体に囚われた意識もまた真の自己の一つの状態です。この肉体意識がある世界(現象界)は幻想の世界です。従って、肉体に囚われた意識の状態は、真の自己が幻想の世界(現象界)で自他を意識している状態と言えます。

質問:人生は一幕の劇だと言われるが、その理由を知りたい
答:この世は真の自己(意識)が自己の本質を体験する為に生まれた現象(幻想)の世界です。それは一幕の劇に似ています。魂の世界で人生の計画(脚本)が作られます。それに従って今生の人生が現れます。それはちょうど舞台がセットされ、登場人物の全てが脚本に従って個々の役を演じるのに似ています。意識は、観客として舞台を見て楽しむこともあれば、登場人物と一つになって一喜一憂することも有ります。ここで前者は自我の無い真の自己の意識状態であり、後者は現象界(舞台)で自我を意識した状態に似ています。
人生はこのように、自分が人生と言う幻想の舞台で、役になりきって、泣いたり、笑ったり、悲しんだりしているようなものです。しかしこれは真実ではありません。真の自己は、舞台を観ている観察者(観客)です。自分の成長の為に自分で選んだ舞台を観ている観客が真の自己です。試練に直面した時、このように肉体に囚われずに静かに状況を観察している自己を思い出してください。

質問:真の自己が純粋な意識なら、身体と思考(分別)は何者だ
答:前述の”人生は一幕の劇、、”で説明した通り、この世(現象界)で自他を区別し思考(分別)する意識は、肉体に囚われた意識です。しかし肉体も思考も現象界の幻想にすぎません。
従って身体と思考は幻想の産物であると言えます。
これに対して、自他を区別しない意識は自己の肉体に縛られない自由で無限の能力を秘めた真の自己です。

質問: 神は存在するのか
答:私たちが生活しているこの世は、自他の区別の無い純粋な意識が、自己の本質を体験しようとした結果、現れた世界です。そこでは、自分の意識が分別心(Mind)を持って自他を区別して、2元対立の生活を送っています。
この様に自他を区別する限り、神は存在します。同様に、過去にこの世に生まれた(降臨した)イエスキリストも仏陀もサイババも存在します。また私たちを守ってくれる魂たちも存在します。
一方、自己を完全に忘じた無の状態では、純粋な意識だけが存在します。この状態では、私たちが一般に言うところの神や仏は存在しません。
この純粋な意識は無限の力を秘めた宇宙大に拡大された意識です。特定の名前を付けると限定された意味が独り歩きしてしまいますが、敢えて言えば、これこそ真の自己、大いなる意識、宇宙の本質、本来の神と言えます。この意識から輪廻する現象の世界が生まれます。この様に考えれば、私たちも神であり神の化身でもあります。

質問:祈りとは何か。
答:私たちの人生は成るべくしてなっているので、完全であるといえます。ですから、こうして欲しい、ああして欲しいと祈る必要はありません。しかし、実生活では諸事に振り回されて、私たちの本質を忘れて苦しむことがあります。その様なときに私達たちは祈ります。
次に、個々のケースについて、私の祈りの一例をお話しします。
*困難に遭遇して、努力をしても、自分ではどうにも出来ないと感じるとき、私は神に祈ります。「私は努力をしましたが、どうすることも出来ません。これからは、神様にお任せします、私にとって最善になる様に私をお導きください」と、真摯に神に祈ります。その後は神に任せて悩みません。悩むことは神を疑うことになると考えるからです。
*苦しんでいる人を見たとき、自分が援助すると共に、神に祈ります、「どうか助けてやってください、彼らにとって最善な道にお導き下さい」と祈ります。
*自我に囚われない純粋な意識を想うとき、私は無心に祈ります。この祈りは、本来の自己(神)に近づき、その本質を感じて、一つになりたいと願うものです。
*自我に振り回されて人を傷つけてしまったとき、祈ります。「私は未熟で人を傷つけてしまいました。どうか私が人を傷つけない様に、お導き下さい」と祈ります。

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