自分は何故生まれてきたのだろう、死んだらどうなるのだろう、自分の本質は何なのだろう、と多くの疑問に突き動かされて、真の自己を探求した事実を述べます。

真の自己(Rev.1)
坐禅等により真の自己を探究して48年になる。今になって考えると、その過程で体験したことは、私の人生を豊かにしてくれた。そこで、私の大切な人たちにも共有し、幸せな人生を過ごして頂きたいと願い、ここにその体験を簡単に整理して残しておきたいと思う。
始めに:
自分は何者だ、なぜ生まれてきたのだろう。死んだらどうなるのだろうと考え始めたのは小学校6年の時であった。敗戦による満州での逃避行、引き揚げ、その直後の妹の死、更に延吉捕虜収容所における父の死、叔父の南方での玉砕など多くの死を身近に感じていたから当然の疑問であった。そして35歳の時に姉の死を経験した。その年に、日陰で細々と育てていたイチジクが一つの拳骨大の実を付けた。これは後にも先にもなかったことだった。それは人間の死後はどうなるか疑問に思っていた私に、姉が答えてくれたに違いないと確信した。母は、築地海軍病院で看護婦をしていた時に、患者が死んでも魂は残っている現象を幾度となく体験しているので、全く疑っていなかった。その後、二人で墓参の折に霊園で撮った写真を現像すると、背景にシャボン玉のような透明で丸い物体が多く映っていた。それは、ある時テレビで放映された心霊スポットで現れた不思議な現象と似ていた。母も私も、それは墓地にいる多くの魂が映し出されたものだと直感し、気味が悪くなって慌てて焼却した。この様なことがあって、人間の肉体は死んでも、意識(魂)は残ると考えるようになった。それを機に原田老師の流れをくむ禅堂で坐禅を始めた。更に、日本で坐禅をする傍ら、インドに於けるサイババとの出会いを通して、人間として生まれてきた意味を深く参究することになった。母は、私が幼いころから坐禅をしていたので、私の道友でもあったが、その母が94歳で亡くなった。葬儀の後、母の家で寝ていると毎晩バタンと大きな音がした。それは、母が自分の姉が亡くなったときに経験した現象と同じであった。母の体験では、葬儀の何日か後に、母の姉が枕元に現れ、黙ってお辞儀をして消えた。それ以来、音はしなくなったと言っていた。私の場合、その様なことは無かったが、葬儀の後七日目を境にして消えた。これは、母が生きていることを私に知らせてきたのだと確信する出来事であった。
こうした体験から、人間の身体は死んでもその意識は生きていると実感したが、疑問はさらに深まった。それは、自分はいったい何者なのか、何故、ここに生まれてきたのか、その自分は死後どのような過程を通って、次の人生に生まれ変わるのか、それは何によって決まるのか、と言ったことである。それ以来、日々の坐禅に加えて、アメリカでの拡張意識の合宿訓練に参加したり、著名な退行催眠の関係者たちと交流して経験を深めた。またサイババの講話録や、アメリカの大学における退行催眠や臨死体験の研究者の著書などを通して、広く研究した。その結果は驚くべきことであった。(これらの体験は、“わが心の遍歴”と題した日記に詳しく記した。)
結論からに言えば、肉体は死んでも、自分は死なない。この人生は、自分が自分の本質(純粋な愛)を実際に体験し、深く知る為に創造された世界である。輪廻する人生で経験する喜びも悲しみも、成功も失敗も、敵や味方の存在も、全てがこの目的に沿って現れる。この事実の一部でも体験するか、確信することが出来れば、人生に対する見方が大きく変わり、その結果、人生そのものが大きく好転すると確信する。
次に、このように結論付けるに至った私の体験と気づきについて簡単に説明する。
個人的な体験を通して自己の本質を知る:
1.禅体験
坐禅を始めて3年程経ったころ、福島の好国寺専門僧堂での5日間の接心会に参加し、禅堂で坐禅をしていた。そこで一心に無―と坐禅をしていると、(無に集中していると)突然、自分の姿を後ろから見ていることに気が付いた。無ーとやっているのは、自分のようだが、今意識している自分ではない。それが、ただ一生懸命に無ーと坐禅をしている。自分は今その姿を後ろから見ている。これは一体どうしたのだろうと考え始めたら、坐禅をしている自分に意識が戻った。
その後に続く坐禅で、はっきりと気が付いた。本当の自分は死なない。自分と思っているこの身体が生きたり死んだりしているのだ。ここで私は「やっぱりそうか」と言う想いと共に深い安ど感に満たされた。
通常は、身体を自分だと思っている。言い換えれば自分の意識( 心、 consciousness)が肉体に囚われている。しかし深く坐禅に集中した時、意識が身体を離れて広がった。この時、身体は障子や柱時計と同じく、この世界(現象界)の一つの存在にすぎなかった。それを肉体から離れた意識が見ていた。障子も柱時計も、老師も、仲間も自分の身体も、皆意識の前に現れた存在であった、このように坐禅により無になって自己が消えると、意識は肉体の束縛から離れる。また自己を意識している時には、意識は肉体と一つになっている。通常はこの意識状態にいる。
老師と独参室で対すると、お互いに話さなくとも老師の想いが感じられ、また自分の心も伝わっているような気がした。この感じは、後述する拡大意識のトレーニングに参加して実際に確認した。また、人の喜怒哀楽が自分の事のように感じ、嬉しかったり悲しかったりする。それは自分と他人は一つだと感じさせる。
2.ヒマラヤでの体験
サイババの道場で祝福を受け、坐禅をした帰途、ヒマラヤをトレッキングするためにポカラ近郊のアンナプルナ登山口のダンプスに滞在した。そこで激しい夕立の後、顔を上げると、眼前に夕日に染まるアンナプルナがそびえていた。赤い夕日に照らされ輝いている。ただ眩しい。我を忘れて見とれていた。
インドで賛美歌を歌っている時も同じような体験をした。歌声と一つになって響き渡っていた。自分がいない。
我を忘れた時、有るのは眼前の現象だけだ。現象と一つになって、見ている意識も無い。
3.退行催眠の体験
アメリカで退行催眠やスピリチュアル分野の研究者達と共に、モンロー研究所による1週間の拡大意識のトレーニングに参加して、そこでヘミシンク(二つの周波数を耳で合成し意識を集中させる装置)により過去世退行を経験したことがある。その人生は、昔、ヨーロッパのようなところで放牧により暮らす老人の人生であった。また別の人生では、やはりヨーロッパの大きな農園とシャトーでの暮らしを見た。モンロー研究所のベッドに横になっているのであるが、自分の過去世の人生を今の出来事として、観察者のように見ていた。また当事者になろうとすれば、その人生の当事者となった。それぞれの世界で生きている自分も、それを眺めている自分も、自分であった。過去、現在と言う時間感覚も無く、ベッドの上で今と過去世を体験した。
私達の世界は、このように実体が無く幻のような世界であるので現象界と呼ばれる。そこで暑い、寒い、嬉しい、悲しいと感じている意識だけが事実だ。
4.坐禅三昧での体験
坐禅が進むと頭に浮かぶ雑多な想いも消えて、静寂を感じる。坐禅開始の鐘を聞き、無に集中する。ある時、代々木上原禅堂で接心の折、集中して何もかも無くなった。時間も無い、空間も無い、感覚もない、完全な無に没入しているがそれも意識しない。そこで突然、終了の鐘が鳴った。ここで初めて長い時間を経過していたことを知った。
このような無の意識状態も自分である。
この坐禅の様に完全に集中した状態では、自分も他人も、現象界の何もかも、全て消えてしまう。自分を意識することもない。何も起きない。一方、ここで意識を働かせれば、現象界が現れる。そこでは、自他を意識して生きる。人に感謝したり、ご馳走を旨いと感じたり、腰が痛いと呻いたりして喜怒哀楽、愛憎、冷暖等2元対立の世界を体験して生きる。
5.サイババとの体験
サイババはインタビューで私に、「この世は、有るように見えるが実在しない」と直接話してくれた。彼は、「この世界は夢のような世界だ。あなたは私だ、私はあなただ。だから自我を放棄し、他人を自分と思って愛し、尽くしなさい。Love All, Serve All. Love Ever, Hurt Never.を心に刻んで生活しなさい」と説く。そして「神は愛だ、自分は愛の化身だ、皆も同じく愛の化身だ」と続ける。
またサイババは、自分の想いは直ぐに実現すると言う。「皆は奇跡と言うが、この能力は皆も等しく持っている、しかし自我に囚われているから、この能力を発揮できないのだ」とも語っている。要するに完全に自我が無くなれば、全てを超越して無限の力を発揮することが出来ると解釈できる。真の自己は本来このような無限の能力を秘めたものだ。サイババに接することにより、この事実を幾度となく目撃した。
多くの講話を拝聴するたびに、語られていることは、自分の体験や気づきと全く矛盾しないことが分かった。ある時、「あなたが見ているこの世界は、鏡に映ったあなた自身だ、あなたが聞いている音は、あなたのエコー(反響)だ」と話されたことがある。現象界は自分だ、と説かれているのだ。
ここでの体験は未経験の人には信じられないと思う。その詳細を前述のSpiritual Diary”わが心の遍歴“に記した。理解の助けになるかもしれない。(尚過去にサイババについて、悪意ある中傷が流布されたことがあるので注記しておきたい。真実のサイババはインドに本部を置く世界的な奉仕団体を統括する聖者である。この事態を心配したインドの首相、最高裁判所長官、国家人権委員会議長、下院議員他が連名で特別なアピールを出して完全に否定し、偉業を称えたことがある。また彼の死に際しては、国葬が行われた。)
6.以上の体験から分かった事
これ等の体験を通して、自分と自分の周りの世界(現象界)との関係を考えてみた。
*人間は死なない。現象界の肉体は死んでも本当の自分(意識)は死なない。
*この現象界は、意識が自己の本質を体験するために生まれた幻夢の世界である。肉体に囚われた意識は現象界を輪廻転生することにより成長する。意識が肉体に囚われない時、意識は只、現象界の観察者にすぎない。
*坐禅や瞑想で、現象界を意識しない時、欲望も自我の執着も無くなり、現象界も消えて究極の無になる。そこでは現象界で語られるところの神も仏も無い。ただ純粋に意識だけになる。しかしその意識すらも意識しない。
*この無の状態から、意識を働かせることにより、現象界(幻夢の世界、2元対立の世界)が現れる。この現象界は自己の想い、言葉、行動で展開される。
*意識は現象界で肉体に囚われて自他を意識することにより、試練を含む数々の経験をして、自己の本質(純粋な愛、慈愛)を体験し成長する。
*意識が肉体を離れたとき、意識は宇宙一杯(無限)に広がる。この自由で無限の意識を一般には、本来の自己、Essential Nature、神、愛の意識、宇宙意識等と呼ぶ。一方、自他を意識する状態は、魂と呼ばれる。
意識の輪廻転生に関する大学や医療機関の研究:
肉体は死んでも意識は死なずに、輪廻転生することは、坐禅や退行催眠を体験することにより事実であると知った。それらは幻覚や思い込みなどではなく、正常な精神状態での体験だが批判も多い。しかし、これまでに多くの大学や医療機関の研究者が論文や著作を発表しており、今では疑いの無い事実として認められている。次にそれらの例を示す。
1.退行催眠による前世の体験
退行催眠はこれまで精神医学の治療法として用いられてきた。患者が医師の誘導によって催眠状態に入ると忘れていた昔の記憶が蘇ってくる。それを思い出すことによって、原因不明の不安症や恐怖心を取り除くことが出来る。この方法を用いて被験者を催眠状態で前世や過去世に誘導することにより、彼らの過去世の人生を体験させることが出来る。研究者は、多くの被験者の証言と歴史上の事実と比較し矛盾の無いことを確認している。
被験者の証言の数々は、この研究の先駆者であるWeise博士(元マイアミ大学教授)やWhitton博士(トロント大学教授)の著書をはじめとして、飯田史彦氏(元福島大学教授)の著書等、多くの書籍で読むことが出来る。
*Many Lives, Many Masters, Weise , B.,UNI Agency,1988
邦訳 「前世療法」PHP研究所
*生きがいの創造(完全版)、飯田史彦、PHP研究所
* Life Between Life, Whitton, J, L., & Fisher, J,. Dell Publishing Group,1986
邦訳 「輪廻転生」人文書院
2.前世を記憶する子供達
アメリカやインドの大学では前世の記憶を持つ子供達について研究している。特にバージニア大学のIan Stevenson博士は、過去世の記憶を偶然に話し始めた幼児の事例を世界中から集めて、その事実関係を調査してきた。例えば、体のどこかに痣を持つ200人以上の子供が過去世の記憶を持っており、彼らは前世に於いて痣と同じところを弾丸や刀剣などで傷つけられて殺されたのだと言い張るのだ。そこで、子供たちが前世で生きていたと言う土地で確かめてみたところ、その内17人の事例について、子供たちが「前世ではこの人物だった」と言う人物が本当に実在していたことがあり、実際に子供たちの証言通りの死に方をしたことを証明する医師のカルテを入手することが出来た。
この様な事例の多くは、子供が3歳から5歳の間に起きることが多く、7歳を過ぎると徐々に記憶から消えてしまう。これ等の子供は、前世で事故や事件で悲劇的な死を迎えた人が多い事も知られている。
以下に参考文献を示す。
* Children Who Remember Previous Lives, Stevenson, I., The University Press of Virginia,1987
邦訳「前世を記憶する子供達」日本教文社
死後の意識に関する大学や医療機関等の研究:
坐禅や退行催眠の体験により、人は死なずに輪廻転生することは事実であると分かったが、死から転生までの間、肉体意識の無い自分は一体何をするのか、全く分からなかった。そこで色々調べてみると、現在このテーマについても米国の大学などで退行催眠や臨死体験の証言を基に広く研究されていることを知った。その一端を紹介する。
1.臨死体験者の体験した死後の世界
病気や事故により、昏睡状態に陥り、更に脳波も停止した状態の患者が、死後の世界を体験することがある。患者が意識回復後に看護師や主治医に語る話は人種や宗教の違いを超えて同様である。
この分野の研究の先駆者として知られるRaymond Moody 博士が1975年に上梓したLife After Lifeは当時ベストセラーとなり、この分野の研究が広く行われることになった。
その要点を列記する。
手術室で横たわる自分を天井から見ていた。その場に居た医師や看護師の会話だけでなく、離れた所での会話も聞くことが出来た。
その後、亡くなった兄弟知人が迎えに来てくれた。眩い光に吸い寄せられていくとそこは愛にあふれた至福の場であった。次に、今生の人生の全てを見る機会があった。
その後、この人生を終えるか、戻るか、決めることになった。この人生に戻ると決めると、横たわる自分に意識が戻った。
臨死状態の患者は、手術台の上で、意識が無く、脳波も停止状態であった。この事実は、人間が脳死状態でも、意識が存在することを示唆している。
この分野の文献も多く存在するが、臨死体験(Near Death Experience)の研究が始まるきっかけを作ったRaymond Moody博士の著書とAnita Moorjaniの著書を参考文献として勧める。
*Life After Life, Moody, R. A., Nat Sobel Associates,1976
邦訳 「かいま見た死後の世界」評論社
*Dying To Be Me, Anita Moorjani, Hay House Inc.,2012
邦訳 「喜びから人生を生きる」株式会社ナチュラルスピリット
2.退行催眠による死後の世界
退行催眠を使って被験者を死後の世界へ誘導することによって、私たちは死後どのような経過を経て新しい人生に転生するかを探究することが出来る。ここでは、退行催眠の被験者は、高度に進化した魂(マスター、指導役の魂、菩薩と言う)からの助言を受けて、生まれ変わりを計画する状況を証言している。また高度に進化した魂は、研究者の質問に答えて、被験者を通して死後の世界を含め輪廻転生する人生の意味について語っている。この分野でも多くの研究の論文や著書が発表されている。
以下に主な参考文献を示す。
* Journey of Souls : Case Study of Life between Lives, Michael Duff Newton, Llewellyn Publications,1994
邦訳 「死後の世界が教える「人生はなんのためにあるのか」、株式会社ヴォイス
*生きがいの創造(完全版)、飯田史彦、PHP研究所
Walsh氏の著書「神へ帰る」は、死後の世界について、神と会話をして自動書記により記録したものである。退行催眠とは異なるアプローチであるが、内容は退行催眠の被験者の証言と殆ど同じで、さらに詳細が語られていて興味深い。この項の参考文献に加える。
* Home with God, Neal Donald Walsch, Atria Books, 2006
邦訳 「神へ帰る」株式会社サンマーク出版
意識が死後に体験する世界:
臨死体験者と退行催眠被験者の証言及びWalsh氏の自動書記は、その方法が全く異なるにもかかわらず、多くの点で一致している。
従ってこれ等の研究結果は極めて信頼できるものと確信している。そこで、主に「神へ帰る」を引用しながら、人間が死を迎えた後、自分の意識が体験する世界(死後の世界)について纏めてみたい。
1.今生の目的の達成と死
人間は真の自己の本質(純粋な愛)を体験し、学んで向上する為に輪廻する。
例えば、貧しい家庭に生まれて人生を生き、周りの冷たさや温かさを体験し、長じて、貧しい人たちの援助に生きることを選び、体験し、その優しさや喜びの感情を生きることなどである。こうして、神性としての自分を単に知るだけでなく、体験し感情を味わうことが肉体をもって生まれた本当の目的である。この過程で、多くの人たちと出会い、思考、言葉、行動によって現象界(人生)が展開する。またその人たちの学びにも相互に関係する。
こうして人生を過ごしている時、病気、老衰、事故などの原因により肉体の死を体験する。今生での目的が達せられたから死ぬのであるが、肉体に囚われているので分からない。しかし、死は予想できないが必ず起きる。
2.肉体を離れる
死んだ途端に、自分は死んだが命は終わっていないと気づく。横たわる自分の体を上から見て、自分は身体でないと感じる。同時に周りの者全員の想いや言動が完全に理解できるようになる。暫くそこにいることもできる。
続いて、自分が死について信じていたことが起きる。
自分の親や兄弟が迎えてくれると思っていた人は、その人たちに迎えられる。
無条件に神に抱かれると信じている人はその体験をする。
地獄に落ちると信じていた人はその通りの体験をする。地獄に落ちて苦しむ自分を観察するが苦しみは無い。嫌だ、助けてと言えば、直ちに愛する人や天使やガイド役の魂に助けられてこの体験を終わらせることができる。(以後、肉体に囚われない自己の意識を魂と呼ぶ)
神と一つになると信じている人は、直ちに神と一つになる体験をする。
この段階では、気づきや混乱など、死後経験すると予想したことを予想したとおりに経験する。またこの世界(魂の世界、死後の世界)では、思ったことや願ったことが直ちに実現する。(時間と言う錯覚が無いからである)
周りには愛情あふれる友人や天使や進化した魂(ガイド役の魂)が待ち構えている。決して一人ではない。助けを呼べば直ちに助けられる。
3.光と合体し至福を体験する
こうした体験が終わると、次に光のエッセンスを浴びる。この瞬間に、これまで持っていた自分の善や悪がさらけ出され、光に吸収される。ありのままで受け入れられた感じがする。恐れも不安も恥もプライドもすべてが溶け出し、魂には何も残らず、無くなったと感じる。この光のエッセンスから純粋な愛が輝きだし、それに覆われる感覚に包まれる。この感覚を言葉にすれば、暖かく包まれ、深く慰められ、大切に慈しまれ、心底から評価され、真に尊ばれ、優しくはぐくまれ、底まで理解され、完全に赦され、丸ごと抱きとられ、明るく歓迎され、全面的に称えられ、喜びのうちに寿がれ、絶対的に守られ、瞬時に完成され、無条件に愛されている。これらが一つになったような感覚と言われる。そこで光の中に入って行き、至福感に浸り全ての欲求を失って、それ以外の何かを知りたいとすら思わなくなり、息をのむほどの栄光と終わりの無い荘厳さ、比類なく美しい感性の中に溶け込んでいく。そこで十分癒される。この純粋な愛である光との合体で、自らが完全に解体したと感じ、自分は身体でもない、精神でも魂でもなく、それらを超えた、はるかに大きい何かであることを体験する。自分が自我の無い、神性な存在、純粋な愛であることについて、完全に理解する。そこから再び自己を意識して前に進む。
4.生前の人生の全体像を見る
ここでは生前の人生の数々をパラパラ絵のようにイメージで見る。それを良く見つめているうちに、人生で起こった全てを経験する。自分に起こったことだけでなく、全員に起こったことが自分に起こったことのように感じられる。それぞれのイメージは自分の人生の各瞬間を表し、それを見つめる事によって、それぞれの瞬間に起こったことの「完全な全体像」を初めて知る。その個々の瞬間は、自分が「自己」という体験を創造するために使われたと気づく。ここで、この人生の目的を完了したと感じるならば、魂の領域に進む。もしまだ目的を達していないと感じれば、物理的な世界に戻り「死ぬ」寸前の瞬間に到着する。ここまでは臨死体験者も証言している。(これが、死は自分の意志による選択で起きることを意味する。)
5.新たな人生を計画する
人生の目的は真の自己を知って選び、表現し、経験し、そして余すところの無い存在になることである。魂の領域では、自分が神性な存在であることについて学び、完璧に理解した。しかし、その経験は物理的な世界でしかできないと分かる。そこで魂は誕生を経て物理的な存在に戻ってくることになる。こうして自分自身を再創造し、成長する。
具体的には、生前の人生を省みて、次の人生の課題(目的)を選ぶことになる。例えば、前の人生で人を激しく傷つけてしまった場合、人生を振り返って、相手がいかに傷ついて苦しんだかを知る。そこで、つぎの人生では、自分が人に傷つけられ苦しむ状況を計画して、それを自ら体験する。その体験を通して、人に優しくすることや思いやりを学び、純粋な愛の感情に浸る。こうして自分(自己の意識、魂)が進化する。これを広い意味で因果と言う人もいるが、次の人生は因縁に応じて強制的に学ばせられるものではなく、自分の学びを進めるために、自分で決めているのである。
こうして新たな人生の目的(課題)が決まると、それに応じた人生のイメージを見る機会が訪れる。そこで、多くの選択肢の中から、目的に合った人生を計画する。そして、これまで出会った多くの魂と、その人生での役割を決める。
(このことから、過去世でも今生でも、自分を取り巻く人たちはお互いに課題達成のための大切なパートナーであると言える。自分を攻撃する人も、協力してくれる人も、皆自分の大きな課題達成のために選ばれた大切なパートナーである。その意味で、この世は善も悪もない世界である。しかし自我にとらわれた小さな世界から見ているから分からない。)
次の人生で経験する準備を終えると、高度に進化した意識達(ガイド役の魂、マスター、菩薩)が質問する。「あなたは自分が何を欲しているか知っているか? あなたは物理的な存在として戻るか?」その答えがイエスなら、再び光と合体し、全面的な溶け合いに入る。そして「誕生」と呼ぶ経験の中に入る。
6.誕生
魂は、魂の世界での記憶を消して、物理的な世界(現象界)に生まれてくる。その理由は、計画した人生を事前に知ってしまうと、自分の本質(真の自己)を真に体験することができなくなるからである。全ての出会いや出来事は偶然ではなく、起こるべくして起きている。だから、現象界の出来事は、それ自体完全だ。
新しい人生では、生起した出来事に対して、ある時は自利に執着し、ある時は人の為に、考え、行動して、感情を表現し、経験する。それにより因縁が生じ、結果が現れる。こうして人生が展開する。その真の目的は、真の自己がその神性(純粋な愛)を体験し、感情を味わうためである。それは物理的な世界に生まれることでのみ可能になる。こうして魂の成長は続く。
7.今生の人間関係
この人生における誕生とは、自己の意識が死後の世界で前世を見直した結果、次の人生で体験することを具体的に計画し、そこで関わる人たちの魂と打ち合わせたうえで生まれてくることである。従って人生で起きる全ての瞬間は自分のために起きている最善で完璧なことである。しかし自我を意識している限り、気が付かない。
これまでに出会った人達、これから出会う人達は、こうして自分の人生に現れて、自己(魂)の意識の向上に手助けしてくれる人たちである。とりわけ自分の親や配偶者は自分と深い縁があって、この世を生きているに違いない。だから限りない慈しみをもって接するべきである。また、ふと目にした貧しい子供たち、彼らは自分が慈愛を表現するために自分の前に現れている。だから見て見ぬふりをしたりしてはいけない。それは、自己を体験する貴重な機会である。
まとめ:
真の自己は肉体(身体)ではない。肉体は、自己の特性である愛を体験する為に現象界に生まれた入れ物に過ぎない。真の自己は無限に広がった無限の能力を持った自由で純粋な愛の意識である。その意識は、自己の体験(成長)に応じて、純粋な愛の存在でいることも、肉体を持って人間界(現象界)を輪廻することも、死後の世界で指導役の魂(マスター)として奉仕することも、衆生の救済の為に人間界に転生することも、すべて自己の意思によってなされる。
人間の住む世界(現象界)に関して言えば、すべての存在は、自己の意識から生まれた幻のような現象である。この宇宙の最果ての銀河も山も川も、私もあなたも何もかも、自分が時々刻々変化する世界を生み出している。その自分は純粋な愛だ、それを体験することが出来る唯一の場が人間界と言う現象界なのだ。その人生は、自己を表現する貴重な機会である。全てが繋がって成るべくしてなっている。だから恐れることなく、自己を忘じて、慈愛をもって生きれば良いのだ。
おわりに:
知ったこと、感じたことを伝えようと欲張った結果、分かりにくい話になってしまった。縁が熟したら読み返して頂ければ幸いである。
結論から導かれる、人生に必要なことだけでも知って欲しい。
それは、自我を忘じることはできなくても、出来るだけ我欲を抑えて、状況に応じて振舞う事に尽きる。そうすればその場が最適に収まり、全てが成る様になり、人生を楽しく過ごすことが出来る。
また、死は次の人生を新しく創造するための通過点である。それは悲しむべきことではなく、むしろ祝福すべきことなのだ。
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